西 博康の北海道の想い出

第3章 子供の頃の円山の風景


@ 昭和46年 小学校6年の時の北海道神宮 神門

  平成14年 秋 親父の13回忌を期に札幌へ帰郷した。貯まっていたお札を北海道神宮へ納めてきた。静寂な神宮の森は今も尚、札幌の人々と野鳥達の安らぎの場であった。円山原生林に隣接する神宮の森は、ミズナラ、カツラ、オンコ、エゾマツ、などの針葉樹、白樺、楓などの広葉樹が生い茂り、北限とされている杉の姿には神聖な霊気さえ宿っている気配さえする。
そんな神聖な森は、野鳥達の安住の居場所だ。ヒヨドリは、昔と同じように木々の間を滑空し、あのカラスの群れは、やはり夕刻神宮の森に帰ってくる。北海道神宮のカラスは、不思議と神の使いの鳥にさえ思えるのが、神宮の森の持つ雰囲気なのであろう。

  北海道神宮は、北海道の開拓と共に建てられた神社です。北海道に開拓使が設置されたのが明治2年7月、初代開拓判官松浦武四郎らの提言で翌月8月に蝦夷地を北海道と改称しました。この頃の日本は、300年続いた徳川幕府から明治政府に政権が移った直後であり、新政府は「すべて神武天皇の創業のはじめに復することを新政の理想とする」という“王政復古の大号令”を発したころでした。また、当時の蝦夷地は、ロシアの南下政策のもと北方からの脅威も多く、また過酷な風土の大地の開拓においては、人々を守る「守り神」の存在が必要とされました。北方鎮護と国土経営の御旗のもと、同年9月1日、二代長官となった東久世通禧(みちとみ)が、東京の神祇官(役所の一つ)において北海道開拓の守護神として大国魂神(おおくにたまのかみ)大那牟遅神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱をまつるための北海道鎮座神祭が執り行われ、同3日に明治天皇に拝謁を賜りました。これが北海道神宮(当時は札幌神社)へ神々がまつられる初めての神事であります。今日でも9月1日御鎮齋記念祭として神事が行われているようです。
  当時の蝦夷地の開拓の拠点は、箱館。しかし、南西に偏りすぎている為、現在の札幌の地を北海道の中心にしようと提案したのが判官島義勇(しまよしたけ)でした。“王政復古の大号令”、札幌を開拓する先達は、皆京都を、理想の平安京を創りたいとの想いがあったようです。島判官の後を継いだ判官岩村通俊もその一人、明治4年札幌に赴任、原野の中に碁盤の目の街づくりを行いました。彼の目に付いた山が「モイワ」(現在の円山)。 「モイワ」はアイヌ語で小さな岩、静かな岩山という意味があり、神聖な場所とされていました。この山を彼は、京都東山の円山に見立て、「円山」と名付けその麓に北海道の守護神を祭る事にしたのです。明治4年5月14日、この神社の名称を「札幌神社」と定め、同9月14日この円山の地に社殿が完成、岩村判官が祭主となって遷座祭(せんざさい)が行われました。翌5年2月に例祭日が毎年6月15日と決定し、6月に例祭が行われ、翌年開拓使から「今後毎年役人は勿論、一般に至るまで休業して遙拝を行うこと」と通達されたのであります。その後は、明治5年1月25日官幣小社、明治26年に官幣中社、明治32年に官幣大社に昇格し、大正2年、伊勢神宮御正殿の撤去古材を拝受して本殿をはじめ、渡殿、拝殿、社務所等を竣工しました。昭和11年、昭和天皇行幸に際し、現在の神門が造営されました。昭和21年4月20日神社本庁に所属。昭和39年10月5日、明治天皇を増祀し北海道神宮と改称し、名実ともに北海道の総鎮守として崇敬されています。

  そんな歴史の背景知らずとも、ものごころ付く前から、北海道神宮の境内と神宮の森は私の遊び場でした。前述の通り、小学校の校区も同じ。それどころか、神宮の第一鳥居が小学校の正門の真横にありました。毎年、6月15日は北海道神宮祭で、学校はお休み。表参道(北1条通り)を「ピーヒャラドンドン」「ピーヒャラドン」・・・・、万燈(まんど)のお囃子を先頭に猿田彦、勤王隊が続き、鳳輦四基を中心に総勢およそ1,200人の行列が緑濃き街に平安絵巻を繰り広げられます。当日は朝学校へ集まり、教室で北海道神宮に纏わる北海道の歴史を教わります。その後、第一鳥居の前に全校生徒が並んで山車やお神輿の行列を見送ります。神宮を出発し、遠くから「ピーヒャラドンドン」と聞こえてくる様は、幼心ながら、ドキドキワクワクして表参道の遥か山手を凝視していました。勤王隊の行列の中には、栗毛の道産子も多数加わっていました。パカパカと蹄の音を立てて近づいてと思えば、信号待ちの間、突然道路に粗相をしでかしたもので、当時の行列には、雅な風景の中にも、そんな光景が子供たちを喜ばせていました。行列が通り過ぎると、あとは祭でお休み。円山公園に繰り広げられた出店に友達同士で繰り出したものでした。北海道神宮とは、北海道の開拓の歴史、あるいは、地域の人達にとっては、欠く事の出来ない存在だったのかもしれません。

 校区内にこのような神宮がある円山小学校では、理科であれ社会であれ、体育であれ、すぐさま円山公園から神宮の森に出向いたものでした。6年生の時の図工の時間、神宮の森で写生を行う機会がありました。図工の時間の写生といえば、お絵描き半分、お遊び半分、楽しみながら時間を費やすうちに、当日のうちに完成せず・・・。要領の良い連中は、適当に終わらせ、鬼ごっこやキャッチボールに興ずるも、要領の悪かった私は、当日絵画を完成出来ず仕舞い。翌日放課後、また絵の具と画板をもって、神宮へ。この絵は、表参道を上り詰め、拝殿の一つ外側の神門の絵です。門の隙間から拝殿が微かに覗かれています。同じ場所で親友と絵を描きましたが、彼もまた完成させる事が出来ず、連日放課後 神宮の神門を訪れました。彼は、放課後2日通い、私は放課後3日通い、神宮の絵を完成させたのです。参拝客に冷やかされながらも、彼と私は、神宮の森で夕陽を浴びながら神宮の風景を描き続けたのです。
  そんな事を、突然思い出し、実家の押入れを掻き回してみると、子供の頃描いた絵がゴロゴロ出て来ました。私の記憶にある神宮の風景は、絵の通りでした。久しぶりに訪れた神門の前に立つと、門の右側の木が随分大きくなったと感じました。果たしてダンボールから発掘された昭和46年の風景では、あの木は、やはりもう少し小さいものでした。変らないように見える風景にもやはり時間の、歴史の刻印が刻まれているのでした。



北海道神宮 神門 平成14年9月27日撮影 
上記の絵から31年の時間が経過していた


 A 昭和48年 中学2年の時の円山公園 第一ひょうたん池

 岩村判官が京都に模して円山と名付けた「モイワ」、しかし現在の札幌には円山の西隣に、円山より一回り大きい「藻岩山」という山があります。現在「藻岩山」と呼ばれている山は、アイヌ語で「インカルシペ」Inkar-us-pe(いつも眺める所)と呼ばれている山でした。実際、その名のとおり眺望のよい所であり、藻岩山からの札幌の眺望は観光バスの定番コースです。聖なる山「モイワ」を「円山」と和人達は勝手に決め、名前を奪われた「モイワ」の隣の山「インカルベシ」に対し「藻岩山」と名付けた和人に対し、当時のアイヌの方々はどのように感じていたのだろうか思わずにはいられません。しかしながら、和人、アイヌ人を問わず、円山には不思議な魅力が有った様で、私も円山に魅せられた一人なのでありましょう。
 円山公園には、図工の時間、何度も写生に出掛けたものでした。上の絵は、中学の時分に描いたもので、恐らく5月の風景かと記憶しています。新緑の公園には何時も木の香りが漂っていました。雨上がりなどは特に木の香りと腐葉土の香りが何ともいえないしっとりとした空気を作り、子供たちを魔法のように昆虫採集や木の実を見つける様に誘いかけるのでした。
  公園の中には、2つの池があります。それぞれ第一ひょうたん池、第二ひょうたん池と言います。桜の名所としても整備されているこの公園は、やはり「理想の平安京」との想いがあったのでしょう。ひょうたん池の廻りは、円山川から更に支流を作り、子供達の水遊びの場として後々整備され、「鴨鴨川」と名付けられました。この絵は、まだ「鴨鴨川」が整備される前に風景です。この、ひょうたん池では、虫を採ったり、藻を採取して顕微鏡で見たり、船の模型を走られたりしました。鮒や鯉も居ましたが、蛭も沢山いて、足中血だらけになったことも暫しありました。


B 昭和44年 小学校4年の頃の円山小学校

  当時の、円山小学校を背景にした版画が出て来ました。円山小学校は、前述の通り、明治4年4月にその前身となる簡易教育所が出来ました。円山村という地名が制定されたのも明治4年5月ですから、円山・北海道神宮・円山小学校は、時を同じくして生まれたと言えるのでしょう。私が入学当時(昭和41年)は、全くの木造校舎の学校でした。それが6年間のうちに順次建替えられ、鉄筋コンクリートの校舎に変っていきました。上の絵は、休み時間に校庭で遊ぶ友達の様子を彫ったものです。木造校舎の窓は、桟でガラスを細かく分けてあり、ガラスの1枚1枚に「円山小学校」と書いてありました。小学校1年の時、先生から「ガラスは高価なものであったから、今のような大きなサイズにはなっていなかった。また、万が一割れても交換が小さな部分で済むように、ガラスを細かくわけて窓を作っているんだよ。」と教えられたことを思い出しました。



C 昭和45年 小学校5年の頃 自宅の窓から見た円山墓地

  円山にいた頃、自宅の山側に隣家は無く、円山との間には、龍興寺と「円山墓地」がありました。この墓地の向こうが、私の円山への入り口なのです。円山へ登るのも、神宮の森に行くのも、動物園に行くのも、墓地の墓石の間をくぐり抜けて行ったものでした。夜になると、真っ黒な闇の中、墓場の中から、トラツグミの鳴声が不気味に聞こえてきます。明け方になると、ツツドリ・ウクイス・カッコウなどは鳴き出し、爽やかな朝を迎えるのです。6時になると龍興寺の梵鐘が時を告げます。子供の頃の朝は、そのように始まりました。
  手前の木々が左に向かって登り勾配なのは、墓地の参道があるからです。木々の間から、墓石が灰色に見え隠れしています。参道には、高山植物のような花が顔を覗かせ、斜面にはエゾヘビイチゴが赤々となっていました。日暮れともなると、何処からか蝉の幼虫が湧いて来て、羽化する為に木に登り始めます。そんな山裾の足元からは、空に向かって、真っ直ぐに何本もの木がそそり立っています。それらは全てポプラの木でした。この絵を描いた2−3年後でしょうか、バイパス道路が出来る事となり、墓地は一部移設、山裾を削り、ポプラの木は全て伐採されてしまいました。野苺を採った山の斜面は、もう記憶の中にしか無くなってしまいました。




D 昭和48年 中学2年の時の舎窓の風景

  円山小学校の時も向陵中学の時も、校舎の窓は、西を向いていました。舎窓からは、三角山・荒井山・大倉山などが見えました。窓からの風景は、ほぼ同じアングルで、春夏秋冬何度も図工の時間に絵を描いたものでした。この時は、中学2年の時の版画でした。冬の風景で、屋根の上に残った雪の様子が解ります。遠方には大倉シャンテがゆったりと佇んでいます。この学び舎育ったものは、誰しもこの風景を見ていました。


E 昭和46年 小学校6年 親友

  子供の頃の想い出を発掘していたら、北海道神宮の絵を、毎日放課後一緒に描いた親友を描いた絵が出てきた。何年経とうと、共有した想い出は変らない。むしろ、私が忘れていた風景を彼はまた、違うアングルで記憶している。親友の記憶の中に私の忘れている沢山の風景が詰まっているに違いない。



(番号と矢印は、絵を描いた場所と方向を示す)


上記文章の歴史的な表現は、下記サイトを参考にさせて頂きました。

北海道神宮 http://www.hokkaidojingu.or.jp/home.html
 (神宮祭のお囃子が聞けます http://www.hokkaidojingu.or.jp/festival/index.html)

札幌市中央区 ぶらり地名めぐり  http://www.city.sapporo.jp/chuo/news/colum/200209.html

道新円山インフォメーション 円山物語 http://www5.ocn.ne.jp/~doshinmy/story/story.html

言葉の世界 北海道のアイヌ語地名 http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/aynu/satporo.htm

札幌神社リンク集 http://nekonote.ath.cx/~sapporo/sapporo/001hokkaidou.html

         
前ページに戻る    「北海道を遊ぼう」へ戻る    NEXT





以下 広告

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送